<物語化>とは、じつはいわば仮説の形成です。

「人はなぜ物語を求めるのか」という本を読んだ。




上の文章は、この本の中にある一文だ。

人は「世界」や「私」をストーリー形式で認識しているそうだ。

言われてみると、たしかにそうかもしれない。

ストーリーには、前後関係や因果関係がある。

「これがこうなってるからああなっているのか。」「これはこういうことだからこうなのか。」

こんなことを無意識のうちに、いろいろなことに当てはめて考えている。そして理解している。

またストーリーの出発点は、平衡状態が崩される不本意な事態が生じたということだそうだ。

新たな平衡状態を獲得するために、その事態を自分が納得(理解)できるようにしていく必要がある。

そこで起こっている事態を納得(理解)できない状態に耐えることはなかなか難しい。

だから、この理解の過程で物語化が行われる。

要は、モヤモヤをそのまま放っておくことはなかなか難しいということだろうか。

たぶん僕は、毎日起こるモヤっとする出来事に、何らかの理由や解釈を付け加えて(物語化して)、いろいろとやり過ごして(納得して)いるのだろう。

その何らかの理由や解釈は自分が作りだした仮説に過ぎないのだけれど、自分の平衡状態を保つために仮説を仮説と思うこともなくやり過ごしている。

そして、それらの情報処理は僕の意識の俎上に上がることもなく日々淡々と行われているのだと思う。

自分が生活を送る上では特にそのようなことを意識する必要もない。

周りで起こる出来事を自分にとって都合のいい仮説で押さえ込んでしまうほうが絶対に気が楽だ。

ただ、対人援助の場面では、自分が作りだした仮説を仮説だと気づかずに支援を進めていくのは危険だ。というか、ダメだ。

対人援助は、クライエントの臨床像をいかに精度良く自分の中に描いていくかがポイントだ。

ここで、自分が描いている臨床像はあくまで仮説だということを忘れてはいけない。

クライエントのことを完全に理解することはできないと思いながら(仮説は仮説だと気づきながら)、それでもできる限り考えていく。

このあいだを行ったり来たりする過程がとても大事だ。

しかもできれば支援者数人で行ったり来たりしたいところだ。

そんな感じであそーとはやっていきたい。

とりあえず、臨床像を“描(えが)く”に変わる、何かいい言葉を見つけたいと思う。

“描く”とか書くのは恥ずかしい。

誰も自分のことを描かれたいとか思ってないような気もする。