NPO法人あそーとの腰が低めの代表のblog

NPO法人あそーとの代表のblogです。

NPO法人あそーとwebサイト http://npo-assort.com/
book and cafe cocoaru webサイト http://cocoaru.npo-assort.com/

2017年11月

久しぶりに自己啓発書を読んだ。面白法人カヤックという会社の社長さんが書いた仕事術みたいな本だ。

タイトルは胡散臭いのだが、中身はおもしろかった。

最近は自己啓発書・ビジネス書をパラパラと読んでいる。普段は小説を読んでいることが多いのだけれど、3ヶ月に1回くらいこんなときが来る。今年も終わりに近づいたり、来年度のことを考え始めたり、ちょっと悩みモードなのだろう。(自分が。)

バランス感覚を磨く


なるほど~、という感じだったので引用する。

物事は白か黒かのどちらか一方ではありません。

すべては「どちらかと言えば白寄り」「どちらかと言えば黒寄り」である以上、判断する際にはどこからどこまでが白で、どこからが黒なのか、その「さかいめ」を見つけることが必要になります。

なおかつ、自分にとってのさかいめと、他人にとってのさかいめは違う。それぞれの判断において、他人軸と自分軸との間でバランスをとりながら適切な選択をしなければなりません。

たとえば、やじろべえは、どこにその重心の軸足を置くかで、うまくバランスを保てたり、ひっくり返ったりします。

あらゆる場面において、ひっくり返るか、うまくバランスを保てるかという「さかいめ」を見つける作業が、実はバランス感覚を磨くということそのもの。

つまり、バランス感覚は、訓練によって習得できるのです。
この本では、そのための三つのステップを紹介します。

①ひとりよがりにならないように視点を増やす。
②全体を鳥瞰図で見て、対局の流れをつかむ。
③自分の大切にしている軸で判断する。

内容が気になる人は、お貸しするので言ってください。

白黒ハッキリ派ほどストレスに弱い


物事は白か黒かのどちらか一方ではない、みたいな見方が好きだ。

たまに、「白黒ハッキリ付けたい派です」と謎の宣言をしてくる人がいるのだけれど、そういう人には近づきすぎないようにしている。

なので、僕のこのことを後押し(?)してくれる情報はないかな、と検索してみたら、あった。


この記事の中で“曖昧耐性”という言葉が出てくる。

恰好いいと思ったので、これから使っていこうと思う。

ここ3年くらいスタッフに向けて「いい支援にもチームワーク作りにも、グレーに耐えられる能力が大切」と力説してきた。

これからは“グレーに耐えられる能力”を“曖昧耐性”と言い替えて、格好良く決めたいと思う。

マッチョに負けるな


ここでのマッチョは肉体のマッチョではなくて、思想のマッチョだ。

強さ至上主義みたいな。

マッチョな人は、白黒ハッキリ付けたがることが多い。(あくまで僕の印象と決めつけ。)

マッチョな人の優しさは、弱さ→強さという1本の直線の中で発揮される優しさだ。

優しくするべき者から優しくされるべき者へ優しさが提供される。

この優しさは無自覚のまま対人援助の場面に持ち込んではいけない。

じゃあ、どうすれば、はうまく言葉にできないので持ち越しします。

とりあえず、マッチョじゃない方がいい支援ができると思っているので、あそーとはマッチョじゃない組織にしたい。(この考え方は少しマッチョ気味かもしれないが。)

翻訳夜話2~サリンジャー戦記~という本を読んだ。

村上春樹と柴田元幸の対談本だ。

翻訳夜話シリーズは2作目で、1作目は翻訳への心構えみたいなことを対談していたように記憶している。(おもしろかったことは覚えているが、内容は特に覚えていない。読み返そうと思ったが、すでにcocoaruで売れてしまっていた。)

この翻訳夜話2のテーマは、サリンジャーという作家の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説についての対談だ。

『ライ麦畑で捕まえて』というほうが分かりやすいかもしれない。

この小説には『ライ麦畑で捕まえて(野崎孝訳)』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ(村上春樹訳)』の2つの翻訳がある。

主人公ホールデンのセリフで「ライ麦畑から落ちそうになる子どもたちを受け止める人(キャッチャー)になりたい」というところがある。そこからタイトルが来ている。

『ライ麦畑で捕まえて』は、どこか自分を捕まえて欲しい、みたいな感じがするけれど、セリフは上記のようなものだ。まあ、そのセリフには「自分のこともライ麦畑で捕まえて欲しい」みたいな気持ちもあるのかもしれないが。

僕は『キャッチャー』のほうがイメージしやすくて好きだ。

キャッチャー・イン・ザ・ライを"対社会"小説として読む


対談の中で、この小説を対社会として読む~、という話があるのだが、僕はこの小説を読んだときに全く"対社会"ということを感じなかった。

とにかく主人公ホールデンの「俺以外全員クズ。でも、うらやましい。」感がすごい。

僕は村上春樹訳しか読んでいないので、もしかしたら野崎訳だと"対社会"を強く感じるのかもしれない。

というか、そもそも"対社会"感が僕(もしくは、僕ら世代)には薄いから感じないのかもしれない。

村上春樹はこの本の中で、

『キャッチャー』にしても、そういう60年代的な若者特権意識からでも読めると思うんですね。でもこの読み方だと、かねてから話に出てきている、社会に反抗する純粋な若者の物語、というところに落ち着いてしまう。それよりむしろ、ホールデンをハック・フィン的に、とにかく一人で右往左往するしかなくて、他人に提示できるような答えなんか持ってないし、そもそも自分はどうふるまったらいいかもよくわからずにいる人間、というふうに捉えたほうがいいんじゃないかと思います。

と言っている。

若者のバイブル、らしい


『ライ麦畑で捕まえて』は青春小説のバイブルと言われている。(googleで「青春 バイブル 小説」とかで調べると必ず出てくる。)

僕も、若者のバイブル、だと思う。でもそれは対社会としての振る舞いではなくて、先に書いたような右往左往感がとにかく若者っぽくて、すごく共感する。(まあ、僕もまだまだ若者なのだが。)

若いときって、みんな多かれ少なかれそうなんですよ。結局、自己の憧れの投影と、自己のコンプレックスの投影みたいなもののミクスチャーの中で、うだうだと行きつ惑いつ生きてる。

うだうだと行きつ惑いつとか言われると、すごく救われるような気がする。

『桐嶋、部活やめるってよ』は高校小説


こないだ(と言っても3ヶ月ほど前)、遅ばせながら『桐嶋、部活やめるってよ』を読んだ。

いろいろな高校生の視点から、様々な場面が描かれる。とにかくみんな、ちょっと冷めていて、でもそれは、あえて冷めているだけで、みたいなところもある(やっぱり集団の中で生きていくためには冷めざるをえないときもある。周りの目が大きすぎて、冷めないと自分を保てない。)

この小説も、行きつ惑いつ生きている感がすごい。

でも、自分も高校生のときはそうだったな、とか思う。

僕が高校生だったのは10年前のことだが、青春と聞くと、すぐに学校というイメージにつながる。やっぱり10代のときなんて、世界のほとんどが学校なんだなと改めて思う。

青春小説ってほとんど高校小説だと思う。

学校ってパワーありすぎ。ということを忘れないようにしながら、SSWとか居場所カフェとかやっていきたい。








僕も本当にそう思う。

twitterのタイムラインに流れてきたけど、2年前の投稿のようだ。

とにかく時間がかかる


今、2歳半の子どもがいるのだけれど、子育ては思っていた以上に時間がかかる。

スーパーで一緒に買い物するだけで、一人のときより1.5倍の時間がかかるし、お風呂も一人で入るより1.5倍の時間がかかる。

何から何まで自分でやりたい時期のようで、

僕が加湿器の水を変えているのを見る→やりたい→もちろん濡れる→着替える

洗濯機に洗剤を入れているのを見る→やりたい→液体洗剤が床にこぼれまくる→拭く

とまあ、こうなると一人でやるよりも15倍くらいの時間がかかる。

子どもが見ていない隙にやろうとしても、スタート音で気が付き、やりたいやりたい!とやってくる。やりたかったやりたかった!になると、さらに時間がかかる。

それはそれで尊い時間だとか大事な時間だとか言われても、イライラするときはイライラする。しかたがない。

子育ては非効率の塊



子どもとの関わりは効率化することはできないし、そもそも効率化はしたくない。

自分を納得させるために、時間をかけて愛情をたっぷり注いで…、とかそんなこともわざわざ言いたくない。

でも効率化しないと時間がない。では、どうするか。たしかに、もう家事を物理で殴るしかない。

子どもの時間を減らせないなら、家事の時間はどんどん減らすほうがいいと思う。

6割の家事と、出来合いの惣菜と、子供と寄り添うほんの少しの愛情か、
9割の家事と、家庭の味の食卓と、子供にイライラする感情的な母親か、
好きな方を選べ。

ここは別に母親に限らず父親もだと思うけれど、それ以外は同意だ。迷わず6割の方を選ぶ。

サボるとこはサボって、イライラせずに、子どもとの時間を作るほうがいい。

そうは言っても、向き不向きはある。


子どもとの時間を作るほうがいいし、作りたいと僕は思っているけれど、それはそれでただの正論だし僕の意見だ。

僕はとにかく昔から家が好きなタイプで、夜の外出が無くてもストレスは溜まらない。むしろ、夜に外出するほうがストレスが溜まる。

そして幸いにも読書とスマホが趣味なので、家で趣味の時間を消化することができる。

今は毎日保育園の送り迎えに行き、ご飯を作り、洗濯をして、お風呂に入れている。俗に言う、育メンという奴だ。

僕が呑み会が大好きな人で、趣味がサーフィンだったら、たぶんここまで家事育児をしていないだろう。

外出嫌いで趣味が読書でラッキーだったと思う。

ただただ、家事や育児(自分がいいと思う)に向いていたのだと思う。

自分の意見はただの正論だと思ったほうがいい。


家事育児をやるのはもちろん大事なことで僕にとっては大切なことだ。子どもにとっても大切なことだと思っている。

でも、それを絶対的なものだと思ってはいけない。

自分の意見を一般的で絶対的なものだと思ってしまうと"わかってるのにやらない人"が周りにたくさん現れてくる。"わかってるのにやらない人"にはとにかく説教したくなるのが人間の心理だ。(僕だけかもしなれないが。)

でも残念ながらその人は、たぶんそもそもわかってない。というよりも、わかるわからない以前の段階から、自分と違うことを考えているし、見ているものも違う。

ただ説教するのではなくて、どこからどう違っているのかから考えることは、対人援助の場面でも仕事でのチーム作りにも、大事なことだと思っている。

最後のほうは少し説教臭くなってしまった(^^)

初対面の人に、いきなりあだ名で呼ばれたり、下の名前で呼ばれたりすると、その場からすぐに離れたくなる。初めてなのに、すさまじいキレで距離を詰められると、こちらも負けじと、キレよく後ろに下がってしまう。

こういうのはとても苦手だ。

自分が人にされてイヤなことは、人にしてはダメです。というのを、けっこういろいろなところで聞いてきた。だから、僕は初対面の人をあだ名で呼ぶことはないし、距離も全然詰めない。(詰めれない。)

でも、僕とは反対に、初対面で緊張感のある場面であだ名で呼んでもらったり、下の名前で呼ばれることで、居心地が良くなる人もいるのだろう。たぶん。

僕にとっては、そういう人の感覚は異次元すぎて、たぶん。としか言いようがない。

でも、たぶん、そういう人がいる。

別にそういう人のことを、バカにしたいわけではない。(そういう人のことを小馬鹿にしている時期はあったが、今は小馬鹿にしていない。胸を張ってそう言える。小馬鹿にしてたのは、そういうあだ名で気楽に呼び合ったりする関係に憧れてたりもあったのかな、とかも思う。)

自分にとっての異次元を、異次元だな~と思っているだけだ。

なんか、相手の価値観と自分の価値観の相違を、ただの相違として捉えられる、みたいなことだろうか。そういうのはとても大切なことのように感じる。

これは対人援助の場面では必須事項だと思っている。まずは、相手と自分の相違をジャッジせずにただの相違と捉えられるか。

そこに自分の価値観を持ち込んで相違をジャッジしてしまうと、相手の行動を理解するときに妙な脚色をしてしまう。

このジャッジからの脚色のコンボには常に自覚的でありたいと思っている。

これは、○○さんのためなんです!は、とても危険です。

今、住んでいるマンションは国道に面している。

最近、空気が冷えてきたからか、暴走族の音の響きがすごい。

ブウォウォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンくらいに、静かな夜の街に響き渡る。

実家の前はJRの貨物線が走っていて、電車が通るたびにテレビの音は聞こえないし、家も揺れるくらいの騒音だった。ドラマを見ているときは、電車が接近する音が聞こえてきたら、慌てて窓を閉めに行っていた。

そんな環境で育ってきたので、閑静な住宅街よりは、少々うるさい街の方が好きだ。車の音とかが聞こえてくるほうが好みだ。

去年まで住んでいたマンションは、暴走族は聞こえなかったのだが、代わりに下の階の方がとにかくアナユキを熱唱していた。

しかも23時くらいに、だ。

少々うるさいのが好みだと言っても、人の大声とかはさすがに不快だ。

今の家のすぐ近くに、外呑み屋さんみたいなところがあって、週末とかは「ウェーイ!おつかれっした!」がよく聞こえる。知らないおじさん達の「ウェーイ!」ほど不快なものは無い。

でも、アナユキは違った。

あまりの熱唱さに、腹も立たなかった。ありのまますぎるが、それがよかった。

(ただ、せっかく寝かしつけた子どもが起きてしまったときは、ありのままではいてほしくは無いな、と思った。)

母、父、息子、娘、の4人家族でたぶん娘が歌っているのだろうけれど、熱唱の翌朝に階段で会っても、何事も無かったかのように自然に「おはようございます」と言ってくれる。

逆にこっちが、なんか聴いてしまってすみません、という気持ちになってしまう。

もしかしたら、熱唱しているのは母なのかと考えたこともあったが、あの母がアナユキを熱唱している姿は想像できない。

ていうか、一緒に住んでいる人たちはどう思っているのだろうか。歌が上手いから許していたのだろうか。23時、耳元、熱唱、アナユキ、はけっこう家族喧嘩の元になりそうな気がする。寛容な家族だ。

そんなアナユキも2,3ヶ月経った頃には聴こえなくなった。

アコギの弾き語りに代わったのだ。もちろんアナユキじゃなくて、別の曲だ。ボリュームもかなり下がり、聴こえるか聴こえないかレベルの音になった。

知らない歌ばかりを弾き語るから、アナユキのときよりも耳に障るようになってしまった。

こういうとき、音楽の知識が豊富だったら、「あ、あれ練習してるな。」とかで楽しめるのだろうと思う。音楽の知識が欲しいと、そのとき初めて思った。

↑このページのトップヘ