NPO法人あそーとの腰が低めの代表のblog

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2017年10月

ここ2,3ヶ月で数名の利用者さんがcocoaruを退所した。

退所といっても前向きな退所で、就労を目指していく事業所や、cocoaruよりもより働くことをメインにした事業所へ通うことになった。

それぞれ利用者さんの希望どおりに進んで嬉しい。

こういうことが立て続けに起こると、cocoaruという場所では何が大切なのかな、と考えるきっかけになる。支援のあり方というか、そういうことだ。


僕は支援において一番大切なことは"美化しない"ということだと思っている。

例えば、つらくても頑張ることは素晴らしい、とか、お互いに助け合うことは素晴らしい、というようなことは″美化された″ことだと思っている。こういうことは、cocoaruでは誰も言わない。

つらくても頑張ることはいいことだと思うけれども、つらいときにいつも頑張れるはずはない。お互いに助け合うことは素晴らしいことだとは思うけれども、嫌な奴とは助け合いたくないし、自分が疲れているときは人のことを助けることなんてできない。


"美化する"ということは"シンプルにする"ということだ。

でも、人の生活なんてシンプルなものではない。

そこにシンプルに美化されたものを持ち込むと、絶対にその通りにならない。

理想をその美化されたものにしてしまうと、常に理想と現実のギャップが生まれる。

そのギャップはたぶんつらい。


今書いていて思ったが、美化するということは、一般化するということで、つまり正論を言うということになるのではないだろうか。ここで、あそーと歴代1位のパワーワード「正論は凶器」が思い出される。

対人援助場面で、この正論というものはとても魅惑的でつい口に出したくなってしまう。(僕だけかもしれないが。)

でも、その正論のことを実は利用者さんはすでに知っている。

すでに知っている人にいちいち正論を言っても仕方がないし、そもそも言われたくもないと思う。

僕も他人に自分が知っていることなんて言われたくもない。

この正論の凶器性を自覚することは、支援者の必須事項だと思っている。(あそーとではスタッフ間で共有できている。と思っている。)


もちろん正論(もしくは、正論ぽいもの)が必要な場面はあるし、美化されたものが必要なときはあると思う。

"美化されたそれは、この世界にはありません。"とシンプルに宣言してしまうことは、それはそれでいろいろなプロセスを奪ってしまうこともある。

いろいろと書いてきたが、要はこういうことをグルグルと考えつづけることが対人援助において一番大切なことだと思っている。

cocoaruでも常にグルグルと考え続けるようにしていきたい。


最近読んでおもしろかった本はこれ。久しぶりに支援系の本を読んだ。今はインベスターZという漫画を読んでいる(kindleで1巻~20巻が1冊5円。たぶん今日まで。)






オタク界隈には試し行動がある。

らしい。

あそーとのオタクスタッフからそのことを聞いた。

これは初めての人と話すときに発生するらしい。

例えば、アニメのタイトルを略して言ってみたり、キャラの有名なセリフを会話の中に入れてみたり、するそうだ。

これらの行動は”わざと”行われているとのこと。

なぜこのようなことをするのかと言うと、略したタイトルやセリフに対してどんなリアクションをするかで、どこまでの話ができるのか(どんな話で楽しむことができるのか)を見ているそうだ。

そのスタッフ曰く、略したタイトルや有名なセリフが伝わったようなら、更なる知識の共有を行い会話を楽しむ。

逆に伝わらなかったなら、その場では空気と化すことに徹するとのことだった。

僕はどちらかと言うと、自分はオタクよりの人間だと思っている。

オタクよりだけど、真ん中少しオタクよりくらいだ。真性オタクの人からしたら僕はオタクでもなんでもないかもしれない。

ちなみに僕の中でのオタクの定義は、「自分の中に絶対的に美しい(美を感じる)と思う対象があり、その対象がいかに美しいかについて人に話しすぎてしまうときがある。」といったあたりにしている。



この略したセリフや有名なセリフを聞くという試し行動は、もしかしたらコミュニケーションにおけるマナーなのかもしれない。

相手の人が話題に興味があるのかどうか、ほんのりと聞く。

もし相手の人が興味がなくても、「すみません。知りません。」という風にならない。

興味がない人は、試されている(知っていますか?と聞かれている。)ことにも気づいていないからだ。

「ごめん。知りません。。。」という謎の申し訳なさは生まれない。

というか、こういうのってオタクの試し行動に限らず、その他の人もいろいろとやっているのではないかと思う。

直接に表現せずに、分かる人にだけわかるように匂わして、伝わらなかったらその話題を続けない。

「その話題知りません。」と言う、謎の申し訳なさもなく会話は続いていく。いい感じだと思う。

kindleでセールをしていたので、筒井康隆の『日本以外全部沈没~パニック短編集~』というのを半額で購入。

『ヒノマル酒場』という短編が面白かった。

大阪新世界の大衆居酒屋、ヒノマル酒場でおっちゃんたちが呑んでいる。テレビに流れる、~通天閣近くにUFOが着陸しました、中から宇宙人が出てきました、宇宙人は「地球人の食生活を研究しにきた」と言っています、歩いて大衆居酒屋に向かっています~、という中継を見て、おっちゃんたちはドッキリだとかドラマの撮影だと思い込んでいる。その後宇宙人がヒノマル酒場に入ってる。アナウンサーに本物だといくら言われても、おっちゃんたちはドッキリだと言い続け、最後にはふざけて宇宙人を殺してしまう。そこにまた仲間の宇宙人が現れて…。みたいな話だ。

新聞記者が、宇宙人を殺してしまったことは地球にとっての一大事だと力説するのだけれど、おっちゃんたちはそれでもドッキリだと言い続け、飼っている猫の話や、競艇で勝った話でバカ騒ぎをする。

このシーンは、僕みたいな中流階級で頭でっかちな支援者は必読だと思う。

僕だけかもしれないが、僕的支援者はこの新聞記者側に立ってしまいがちだ。

意識していないとすぐに上の新聞記者側に流れてしまうので、僕は常々意識するようにしている。



筒井康隆といえば、ビーバップハイヒールに出ていたカシコのおっちゃんというイメージだ。やっぱり江川達也とセットでイメージが浮かぶ。

僕は『パプリカ』くらいしか読んだことがなかったのだが、今回はたまたま目について安かったので買って読んでいる。

『パプリカ』はたしか20歳くらいのときにDVDで借りてアニメ映画を見た。そのあとに原作を読んだ。

パプリカ/千葉敦子は、時田浩作の発明した夢を共有する装置DCミニを使用するサイコセラピスト。ある日、そのDCミニが研究所から盗まれてしまい、それを悪用して他人の夢に強制介入し、悪夢を見せ精神を崩壊させる事件が発生するようになる。敦子達は犯人の正体・目的、そして終わり無き悪夢から抜け出す方法を探る。

引用-ウィキペディア パプリカ(アニメ映画)

パプリカが大勢の他人の夢を吸い込んで子どもに戻るみたいな場面があって、なるほど、と感心した記憶がある。夢の反対を現実とすると、大人になるにつれて現実ばかりになってしまう。もっと夢を吸い込み返さないと、とかこれを書きながら思っている。

ただ、そもそもそんな場面が本当にあったのかはわからない。数年前に原作を読んだが、原作にはそのような場面はなかった。(ように思う。これも記憶が曖昧。)アニメオリジナルのシーンなのだろうか。



パプリカ違いだが、僕は大人になってパプリカを食べられるようになった。子どもの頃はパプリカとかピーマンは嫌いだった。

僕の実家には「嫌いなものも食べる」という教育方針は無いので、嫌いなものを残してもほとんど何も言われない。

ただ学校の給食ではそういうわけにもいかないので、そのときは我慢して食べていた。もしくは、こっそりパンに詰めて残していた。

大人になってよかったなと思うことは、嫌いなものを食べなくてもいい、ということだ。

これは間違いなく大人の特権で、大人になる醍醐味だ。

嫌いなものを食べなさいと言われている子どもには、もう少し耐えたら解放されるよと伝えてあげたい。

ちなみに、僕はパプリカもピーマンも25歳くらいのときに急に好きになったので、今は嫌いな食べ物は無い。(アレルギーで食べられないものは30種類くらいある。)

久しぶりのblog。先週から今週にかけてなかなか忙しかった。

先週木曜日は居場所カフェ@野崎高校。金曜日はみつばち古書部の店番。
週が明けて月曜日は、自立支援協議会の研修。
火曜、水曜と居場所カフェ。野崎高校と茨田高校。
木曜日は事務所で貯まった事務処理をして、金曜日はSSW(スクールソーシャルワーカー)、で今日。
平日は保育園へのお迎えがあるので夕方は18時前には事務所を出ないといけない。
なので日中に外に出て終わった後に事務所に来ても何もする時間がない。

来週からは少しは時間ができそうなので、嬉しい。

忙しい週間のためにblogを書き溜めようと思っている(前から思っているができていない)。

最近読んだ本のことを書く。

先月くらいにkindleで講談社文庫の50%ポイント還元セールをしていたので、村上春樹の初期3部作を購入し、読んだ。

『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』。僕はけっこうハルキストよりの人間なので、村上春樹の本はだいたい読んでいるし、好きだ。

この3冊は4,5年ぶりくらいに読んだが、前に読んだときより面白く感じた。

前に読んだときは今ひとつよくわからなかったのだが、5年も経つとなんとなくわかるようになった。(嬉しい。)

風の歌を聴け、に下記のようなセリフがある。

「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクついてるし、何も持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配してる。みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」

これは語り手の<僕>と友人の<鼠>の会話の中での<僕>のセリフだ。

<鼠>はこれを聞いて、しばらく黙り込んだ後「嘘だと言ってくれないか」という。たぶん真剣に言っている。

この上記の3冊は<僕>と<鼠>の関係性を中心に書かれており≪青春3部作≫とか言われている。この≪青春3部作≫は<喪失>の物語、この後に『ダンス・ダンス・ダンス』という小説が続くのだが、これは<再生>の物語とか言われている。

羊をめぐる冒険の最後で<鼠>は喪失されるのだけれど、上記の引用のセリフに対して黙り込んでしまう≪鼠≫のような心性こそが<青春>の大きな一部分で、それを<喪失>し<成熟>に向かうことを描いていると僕は思っている。

<鼠>と<僕>は人の心(というか、感じ方というか、ものごとの見方というか)の二元性(というか複雑性)のメタファーだ。

<>とか≪≫を使ったり、“メタファー”とか”二元性”とか書いたりすると書評っぽくなるなと思った。

要は、プロ野球選手のイチローだって「練習だるいなー」とか「この1球で給料○万円か」などと考えてるときはあるのだろう、と想像できるようになることが<成熟>だということだ。

(もしかしたらイチローは人並み外れた強さを持っているのかもしれないが。そうだったらすみません。)

『風の歌を聴け』は、

村上春樹っぽさの代名詞となっている、”完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。”から始まる。まだ、パスタはあまり茹でない。

ちょこちょこ村上春樹を読んでいる人にお勧めしたい小説です。


僕もこんなことをうっとりしながら書いてしまう中二病性(<青春>)を捨て去り、<成熟>に向かいたいと思う。(捨て去れそうな気はしない。)

事務所と自宅のあいだに、グリル的場という洋食屋がある。

昔ながらの洋食定食屋だ。

もちろん外観はレンガ作りっぽい感じで、店内は汚れたアンティーク調。テーブルが5つと奥にカウンター。カウンターは物置きと化していて、仕込みの食材でいっぱいになっている。

ドアにカランカランも付いている。

先日、久しぶりに1人の夜があった。

1人の夜はだいたい、いつもよりちょっと遅くまで事務所で仕事をして、外食をして帰る。

外食は、爆(バオ)という中華料理屋か、グリル的場の2択。

今回はグリル的場にした。

ちなみになぜその2軒かというと、店内が比較的広めで、テーブル席が多く、1人でもテーブル席で気軽に食べられるからだ。(広いといってもテーブル5脚程度なのだが。)

1人のご飯は本かマンガを読みながらゆっくり食べたいので、4人がけテーブルにできれば座りたい。

食べるものは決まっていて、バオならエビチリ定食(美味しい。)、グリル的場なら日替わり定食だ。

この日替わり定食のいいところは、ポタージュスープが前菜的に出てきて、その後に味噌汁付きの定食が出てくる。

汁物からの汁物。

この雑さが好きだ。

今回はビフカツ定食だった。美味しかった。

もちろん、味噌汁は残してしまった。(すみません。ポタージュでスープ欲は満たされてしまう。)

店内のテレビでオールスター感謝祭が流れていて、チラ見しながら面白く見ていたが、途中でフイに店長がブラタモリに替えた。

こういうところも通ってしまう理由ですね。

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