H.G.ウェルズの『盲人の国』というSF短編を読んだ。

昔、聞きに行った発達障害の講演会で、障害とは?ということを考えるときに話されていてとても印象的だった。あらすじはネットで読んである程度は知っていたけれど、せっかくなので全部読んでみた。

この物語はある登山家“ヌネス”が深い谷にある村に迷い込むところから始まる。その村の住人は目が見えない人ばかりだった。あるときに目が見えなくなる病気が横行したその村では、目という器官が退化した人たちが暮らしていた。
「盲人国では片目が見えるものが王になる」という噂を聞いていたヌネスは、権力を握ろうと「目が見える」という力を利用しようとするのだが何もうまくはいかない。というのもその村では、あらゆるものが視覚を必要としないようにデザインされていたからだ。例えば、住人たちは明るく暖かい昼に気持ちよく眠り、暗く(そもそも暗いという概念もない)キリリと冷える夜に活動をする。標識も、視覚ではなく触覚に働きかけるようなデザインをしている。そのような村では、視覚に頼って生活をしている登山家は、何もできない「生まれたばかりのもの」と呼ばれ、ときには馬鹿にされる。「目が見える」ことは力でもなんでも無かった。
そんなヌネスもある程度はその村での生活に慣れていき、ある住人と恋仲になる。互いに想いあい結婚しようと話しあうのだが、一つの条件を突きつけられてしまう。それは「目」を取り除く手術をするというものだった。この村ではヌネスのおかしな言動(ものに何度もつまずいたり、目が見える見えないなどという意味のわからない言葉を使う)の原因のすべては「目」にある、だから「目」を取り除いてしまえば、立派な村人になれると判断されてしまったのだ。結婚するのか、目を取り除くのか、、、最後はヌネスが村から逃亡するところで話は終わる。

この短編で僕が特に印象深かったのは以下の場面だ。

ヌネスは手をひっこめて言った。「わたしは見ることができるのだ。」
「見るだって?」コレアが言った。
「そう、見るのだ」ヌネスはそのほうにむきなおったが、ペドロの桶につまずいた。
「この男はまだ感覚ができあがっておらぬ。」第三の盲人が言った。

ヌネスは笑っていった。「ぼくには道が見えるんだよ」
「“見る”なんていうことばは、ないのだ」盲人はすこし黙ったあとでいった。
「そんなばかげたことを言うのはやめて、わたしの足音についておいで」

「『<盲人の国>では、片目の男が王になる』という言葉をだれも聞いたことはないのかい」
「盲人とはなんだね」盲人はふり返って、無関心にたずねた。

この話からは、この国では住民と登山家のどちらが障害者なのか?みたいなことも考えられると思うけれども、

見るだって?

“見る”なんていう、ことばはないのだ

「盲人とはなんだね」盲人はふり返って、無関心にたずねた。

という言葉が大切だと思う。


先日、発達凸凹の人と清潔について話をしているときに、

(いろいろ話をした最後に、)
「そもそも、清潔ってピンときてますか?」
「いやー、ピンとこないですね。」

という会話があった。

“清潔”なんていう、ことばはないのだ。

ということだ。

そう言われてみると“清潔”ってかなりたくさんの要素からできている。

髪の毛、服、ひげ、匂い。自分を見て、相手がどう感じるか、どんな気持ちになるか。たぶんもっとたくさんの要素から成り立っている。

そんなたくさんの情報を無意識のうちに“清潔”に落とし込める人にとっては、なんてことはない。なんてことが無さすぎて、自分が“清潔”にピンときていることにさえ気づいていない。

でも、“清潔”にピンとこない人ももちろんいる。

ただ、その方が希望する生活を送るためには“清潔”というものが必要になってくることもある。そんなときは“清潔”を分解しないといけない。その方にとってピンとくる言葉だけをならべて“清潔”を説明する。まあ、これが超難しい。

ここから思うのは、支援者として自分の“ピンときているバイアス”から逃れて、フラットな頭で見る必要がある、ということだ。(“バイアス”の使い方、合っていますかね。)

“ピンときているバイアス”から逃れるためには、利用者さんが”ピンときていない“ことに出会う必要がある。それで初めて自分が”ピンときているバイアス“に囚われていることに気づく。常々、自分が伝えている言葉(伝えた気になっている言葉)は、相手にとっては何の意味も持たない(ピンときていない)言葉かもしれないと思っておかなくてはいけない。


仕事を始めてから、発達凸凹の人と関わる機会が多く、凸凹からくる”ピンとこなさ“みたいなことに出会うことは多かった。ここ2年ほどで高校生と関わることが多くなった。高校生とコミュニケーションをしていても”ピンとこなさ“みたいなものに出会うことがある。けれども、それは凸凹からくる”ピンとこなさ“とはちょっと違うなと感じる。”安心感“とか”安定感“とか”信頼感“とか、そこへの”ピンとこなさ“に出会っているような感じがする。

僕自身には、そこへの”ピンとこなさ“に”ピンとくる“ような体験はない。そこからきちんと始めないといけないなと思う。”安心感”とか”安定感”とか”信頼感”に自分はピンときていたんだなとここ2年で初めて気づいた。