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人生を変える名言がある。


どれもいい言葉だと思うし、響くこともある。

ただ最近、こういう系のものが素直に聞けなくなっている。

たぶん説教臭く感じてしまうところが苦手なのだと思う。

名言それ自体を言った人は、自分が思っていることを言っただけで、自分自身のことを話しただけなのだろう。

前後の文脈の中でのその言葉は、もしかしたら名言でもなんでもなかったかもしれない。

そんな言葉が”名言”として別のところでまとめられると、それは誰かに聞かすための言葉になってしまう。

その辺が説教臭くて僕は嫌なのだと思う。


『ぼくらの文章教室』 高橋源一郎 朝日新聞出版社 を読んだ。

早速、引用する。

あなたが、この社会に生きている限り、あなたは、「二倍になった(粉飾された)あなた」として文章を書かなければならない。
これは、あなたが引き受けなければならない厳然たる事実だ。
あらゆる文章読本、あらゆる国語の教科書は、そのように教えている。あなたが、なにかを習う、という時、あなたは「等身大のあなた」になるため、ではなく、「二倍になった(粉飾された)あなた」になるために、習うのである。
そして、あらゆる文章読本、あらゆる国語の教科書に、そのことだけは書いてはいないのである。
ぼくも、そのことを認めよう。
なぜなら、「等身大のあなた」には、形がないからだ。捕まえようとしても、実態がないからだ。変化してやまず、当人にも、さっぱりわからないからだ。空気のようなものであり、水のようなものであり、一瞬も留まることがないものだからだ。
どうして、そんなものに文章を書くことができるだろう。
もっとも、人間の自由を表現していることになっている、小説や詩だって、そのほとんどは、「等身大のあなた」ではなく、「二倍になった(粉飾された)あなた」が書いたものだ。
本当の自由は、普通の人間どころか、芸術家のような、自由きままに生きているように見える人間にとっても、捕まえることは困難なのである。
だから、あなたたちが、「これぞ芸術!」、「これぞ人間の奥底にひそむ本質」、「ここに、真の人間の姿がある」という触れ込みで読んでいる傑作だって、みんな、「等身大」の人間の「自由」が描かれたものじゃない。「二倍になった(粉飾された)」人間が、さも自由であるかの如く、ふるまって書いたものにすぎない。ほんもの?馬鹿な。ニセモノに決まっているじゃありませんか。


名言は「二倍になった(粉飾された)あなた」が書いたものだと思うと、これは素直に聞くことができそうだ。

粉飾されているのだから、名言を素直に聞かなくてもいいような気になれる。だから、素直に聞ける。


一番初めに引用したまとめサイトを見ていると、

「将来についてなんて心配をしたことは一度だってないよ。それはすぐやってくるさ。」 アインシュタイン

「大丈夫、正常だ、精神が健康な人というのは、ある程度の混乱と矛盾を抱えているもんなんだ、好き嫌いが石とか鉄みたいに硬く安定してしまっている人のほうが危険だ。振り子がどちら側に振れるかわからない、迷いがあっていつも悩んでいるという状態でみんな生きているんだよ、それが正常なんだ」村上龍 イン・ザ・ミソスープ


とか


「人間はやはり物欲を持たなくてはいけない。物欲が衰えた時は、生命力の弱まった時だ。」 上林暁

「足るを知る者は富む」 老子


というのがあって、素直に聞くのも大変だなと思いました。


この本、題名はジェンダー的にはどうかという感じですね。内容は良かったです。

りんごが食べられない。
食物アレルギーだ。

子どもの頃はりんごが食べられた。むしろ好きだった。蜜のつまったりんごは美味しかったという記憶もある。

年齢を重ねる毎に、食物アレルギーが増えていっている。

バナナ。桃。ビワ。

全てアレルギーだ。

山崎製パンのまるごとバナナは好きだったし、ネクターピーチも好きだった。保育所の庭の木にできたビワは美味しかった。

他にも果物アレルギーが多すぎて、むしろ食べられる果物を挙げるほうが早い。

食べられるのは、イチゴ、ぶどう、柑橘類、パイナップル。以上だ。

食べると喉が痒くなるだけで、しばらくすると治る。ただ、何かあったら怖いので食べないようにしている。

食べれなくて残念ね、と言われることがあるが、実は残念という気持ちは全く無い。

美味しいことは知ってるし美味しそうだとも思う。でも、全く食べたいとは思わない。

アレルギーが発症すると、その食べ物の固有名は僕の中から削除されることになり、"アレルギーの食べ物"というカテゴリーにすべてが集約されるようだ。そこでは、美味しそう=食べたい、は成り立たない。

果物以外にも食物アレルギーがある。

そば、豆乳、豆腐、そして、たらこ/明太子。

この、たらこ/明太子は一番やばい。

小学生のとき、明太子巻きずしを食べて動けなくなり、スイミングスクールを休むことになった。
(梅干しの巻きずしと見た目で間違えた。)

中学生のとき、友達からもらったおにぎりの中身がたらこで、しばらく動けなくなった。
(わが家ではおにぎりにたらこを入れるという習慣が無かったので警戒を怠った。)

大学生のとき、バイト先のまかないメニューがたらこスパゲッティで、帰宅後嘔吐が止まらなかった。
(店長が作ってくれたので食べないと、と思ってしまった。)

社会人になってから、居酒屋の突き出しでたらこがこっそりと和えられていた。後味で気づいたときには遅かった。3日間蕁麻疹が収まらなかった。(病院に行きました。)

とにかく食事では警戒を怠ってはならない。その意識により、ときに様々な食品に惑わされる。

①とびっこ
実はおなじ魚卵でもとびっこはいける。(ちなみにキャビアはアレルギーだ。)基本的にとびっこ的なものは、アクセントとして一番目立つところに出てくるので気になってしまう。とびっことわかっていても、とりあえず横に避けて食事を進めていくようにしている。

②さくらでんぶ
原料がなにかは知らないが、色が焼いたたらこに似ているので警戒対象となる。(父親が焼きたらこが好きで、食卓に並んでいたので見慣れている。)だいたいの場合は、箸を伸ばして避けようとしたところで、魚卵ではないことに気づく。そのまま食べることにしている。

③めんたい味
ポリンキーとうまい棒。どちらも好きだ。


と、書いてみるとなかなかに面倒臭そうに感じるかもしれないが、当事者からすると必要不可欠な行為なので、面倒臭い/臭くない、という感覚すらない。






僕はとても面倒臭がりで、使ったものを元あった場所に戻すことが苦手だ。片付けられる人を見ていると、面倒臭くても片付けてすごいなと思っていた。ただもしかしたら、片付けらる人にとっては必要不可欠な行為で、面倒臭い/臭くない、という感覚はないのかもしれない。


と思うと、面倒臭がってしまう僕には、使ったものを元のあった場所に戻すようにする意識づけはたぶん意味がない。面倒くさがっても、使ったものがもとの場所に戻っていくような仕組みを考えなければいけない。


片付けれないのは気持ちの問題ではなく、仕組みの問題だ。ここでは、気持ちを新たにすることは何も意味がない。気持ちを新たにするよりも、仕組みを考えることに時間を使ったほうがいい。


事務所の仕事机が片付かず、新しいスタッフに机を引き継ぐことができずに2か月が経ってしまいました。

机が片付くような仕組みはまだない。

たまに「ひとの話を聞いてない」と言われる。

自分では話を聞いているつもりなのだが、聞いていないと言われる。ということは、まあ聞いていないのだろう。
なぜ人の話を聞いていないと言われるのか。たぶん、生返事だ。

僕が生返事になってしまうのは、相手の話の内容に興味が無いからだ。

興味がない話をしっかりと聞くことはとても難しい。聞いてるフリをしようとは思っているのだが、たぶんできていない。
生返事をしてしまう理由は、僕自身が生返事をされても嫌な気持ちにならないからだ。だから生返事をしてしまうことへの罪悪感が薄い。そもそも相手が自分の話に興味が無いというところから始めているから、生返事が返ってきても「ですよね。」という感じだ。

生返事をされたときは、
①興味がない話に付き合わされる相手への罪悪感の量
②自分がその話をどれだけしたいかの量
を比べて、前者が大きければ会話を止めるし、後者が大きければそのまま話を続ける。(少しはゴメンねと思っている。)

僕の話に興味が無ければ、興味が無い感じをしっかりと出してくれれば、前者が上回るので会話を止める。なのでできれば、僕のことは気にせずに興味が無い感じをしっかりと出して欲しい。

個人的には、生返事を返してくる人のほうが話しやすいくらいだ。たぶんその相手も生返事をされても大丈夫なんだろうなと思わせてくれる。こちらの反応に関わらず、自分の好きな話をしてくれる人は話していて気が楽だ。(もちろん興味が無さすぎると、興味が無い感じをしっかり出して会話を終わらせてもらう。)

生返事を許してくれる人は、たぶん人からの評価とか気にしないんだろうなと思う。人からの評価を気にしない、ということは、たぶん僕のことも勝手に評価しないんだろうなと思う。この人は僕のことを勝手に評価しないと思えると、とても気が楽になる。

「その島のひとたちは、ひとの話を聞かない~精神科医、「自殺希少地域」を行く~」という本を読んだ。

この本は、精神科医の著者が日本の「自殺希少地域」(自殺で無くなる人が少ない地域)に行って、それぞれ約一週間前後宿泊したときの記録である。

その中でも特に印象に残ったところを引用する。

数年前に別の島からこの島にきたという若い男性と知り合った。彼の家に行き、島の話をいろいろ聞いた。彼はもうじき島を出るという。
「島に来て、鍛えられました。」
何らかの理由があって地元からこちらに来てまた地元に戻る。彼はたくましくなったと言う。このような離島で働くのは、ある程度ゆったりとした人間関係とゆったりとした時間の中で生きていくような感覚の中で、少し休むことができるならばとの思いで来るひともいる。実際に、そのように感じていると話す外から来た若い人もいたが、彼はそうではなかったと言う。
「この島の人たちは強い。自分を持っている。」
私は、さぞ、優しい人がたくさんいるとか、陰口などがほとんどないとか、そういう話を期待していたわけだが、彼の評価はそうではなかった。
「この島のひとたちは、ひとの話をきかない」
というのである。島が好きかと言うとそう言い切れないようだった。もちろん感謝もしているのだという。しかしとても苦労も多かったのだと。
「たとえば、自分が歌手でこういうひとが好きでと話をしたとします。その場では相手もいいねと言う。しかい興味がなければその音楽は絶対にきかない。これまでの人間関係だったらいいねと言ったら少しは聴いてみようかみたいなことになるんだと思うんですよ。でも島のひとは興味がなければ絶対にきかない」
相手に同調することはない。自分は自分であり、他人は他人である。その境界がとても明瞭であるというのである。
「陰口なんかもよくある。噂話もよくある。あっという間に島中に広がる」
彼の話だけを聞いていると島に住みたくなくなってしまうが、これは彼が見た現実に対しての彼の感想である。私は彼の話を聞きながらひとつの答えに達しようとしていた。
自殺でなくなるひとが少ない地域というのは、
「自分をしっかりともっていて、それを周りもしっかりと受け止めている地域である。」
彼は別の文化の中で彼なりの価値観の中で生きてきて、そしてこの島で別の価値観と出会い、その中で数年を生き、そういう意味でたくましくなった、と言った。
彼はきっと、これからは生きやすくなるのだ、と思った

『その島のひとたちは、ひとの話を聞かない ~精神科医、「自殺希少地域を行く」~』 森川すいめい 青土社 


とても大切なことだと思った。ひとの話を聞かなくても(というか、自分が今したいように振る舞っても)、周りから許される(たぶん、許すとか許されるとかいう価値基準もないのだろう)環境があるからこそ、人の話を聞かないでいられるのだ。
自分を持つためには、自分を持ってもいい、と感じさせてくれる環境にいなければならない。同調を求められる場所で自分を持つことはとても難しいし、そんなことはできないと思っているくらいがちょうどいい。自分が情けないから自分を持てないとか思う必要は無いと思う。
僕が生返事をしてしまうのは、みなさんが許してくれるからですね。と思った。

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