NPO法人あそーとの腰が低めの代表のblog

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今年から某高校でSSW(スクールソーシャルワーカー)をしている。

少し前の話だけれど、7月の勤務日がちょうど終業式の日だったので少しだけ覗かせてもらった。

そこで久しぶりに聞いた。


「夏休みを満喫して下さい。」


前職を辞めて、あそーとを立ち上げて5年ほど経った。

2013年の9月に辞めたので、前職を辞める直前にお盆の5連休があった。

立ち上げる前は、起業と言う名の大海原に旅立つのだ!くらいに大げさに考えていたので、
その5連休にしても人生最後の特に予定の無い長めの連休ぐらいに思っていた。

何か予定があって連休を取ることはあっても、初めから決まっている連休で連休することはもう一生ないだろう、的な感じだ。

なので、何が何でも満喫しなければいけない、と心に決めていた。むしろ満喫プレッシャーだ。

(予想に反して、あと2,3年くらいしたら初めから決まっている連休で連休できそうな気配は感じている。)

ということで人生最後の長めの連休は、家から出ずにファイナルファンタジー7を最初からすることにした。

ファイナルファンタジー7は小学校高学年くらいのときに従兄から借りてプレイしたことはあったのだが、難しくて途中で断念していた。

お盆休みが始まる前に、中古のゲームソフト屋に行きファイナルファンタジー7を購入。

さらに、見やすい攻略サイトを事前に検索。

家から出なくて済むように食料も多めに購入。

勢いそのままに、休み初日でもダラダラと長く寝ることもなく、早起きし黙々とファイナルファンタジー7に取り組んだ。

やはり24歳の僕の知力・理解力・実行力は小学校高学年の僕よりもはるかに優れており、3日ほどであっさりとクリアしてしまった。

というか、攻略サイトが優秀だ。

残り2日はダラダラと家で過ごして、人生最後の連休を満喫することに成功した。

いい思い出である。




先日、久しぶりにblogを更新したら2ヶ月前に書いた記事が目に入った。

あそーとの社訓について書いていた。

ちょうど最近2つ目の社訓を思いついたので書く。

あそーとの社訓その2

「好事魔多し」

今までもたまに見かけていた言葉だったが、先日何かでこの言葉を見たときに、とても目に止まった。

「コウジ、マ、オオシ」

響きがかっこいい。


あそーとを始めた頃から「いつか穴に落ちる」と言い続けている。

僕は、根拠の無い自信を多大に持ってしまうタイプなので、そんな自分への戒めを込めて言ってきた。

「いつか穴に落ちる」とか「うまく行くはずがない」とか言いながら、自分の中に潜んでいる「うまくいくに決まっている(根拠のない自信)」とバランスを取っていく作戦だ。

この作戦が功を奏したのか、ひとまず5年は続けることができた。なのでこの作戦は継続していく。

「好事魔多し」の類語で、「月に叢雲花に風」というのがあるみたいだ。

「ツキニムラクモ、ハナニカゼ」
これもかっこいい。

先日、来客の方から「あそーとさんはクレドあるんですか?」と聞かれて「無いっすね~」と答えたところだが、コウジマオオシかツキニムラクモハナニカゼをあそーとのクレドにしようかと思う。

このクレドの使い方は間違っているかもしれない。


「うまくいくはずがない」⇔「絶対うまくいく」みたいに、思っていることがフラフラしてるけれど、そういうふうにフラフラすることって人間のデフォルトですよね、というような歌。歌詞がいいです。

斉藤和義「進めなまけもの」


Thee Michelle Gun Elephant 「 I Was Walkin' & Sleepin'」

<物語化>とは、じつはいわば仮説の形成です。

「人はなぜ物語を求めるのか」という本を読んだ。




上の文章は、この本の中にある一文だ。

人は「世界」や「私」をストーリー形式で認識しているそうだ。

言われてみると、たしかにそうかもしれない。

ストーリーには、前後関係や因果関係がある。

「これがこうなってるからああなっているのか。」「これはこういうことだからこうなのか。」

こんなことを無意識のうちに、いろいろなことに当てはめて考えている。そして理解している。

またストーリーの出発点は、平衡状態が崩される不本意な事態が生じたということだそうだ。

新たな平衡状態を獲得するために、その事態を自分が納得(理解)できるようにしていく必要がある。

そこで起こっている事態を納得(理解)できない状態に耐えることはなかなか難しい。

だから、この理解の過程で物語化が行われる。

要は、モヤモヤをそのまま放っておくことはなかなか難しいということだろうか。

たぶん僕は、毎日起こるモヤっとする出来事に、何らかの理由や解釈を付け加えて(物語化して)、いろいろとやり過ごして(納得して)いるのだろう。

その何らかの理由や解釈は自分が作りだした仮説に過ぎないのだけれど、自分の平衡状態を保つために仮説を仮説と思うこともなくやり過ごしている。

そして、それらの情報処理は僕の意識の俎上に上がることもなく日々淡々と行われているのだと思う。

自分が生活を送る上では特にそのようなことを意識する必要もない。

周りで起こる出来事を自分にとって都合のいい仮説で押さえ込んでしまうほうが絶対に気が楽だ。

ただ、対人援助の場面では、自分が作りだした仮説を仮説だと気づかずに支援を進めていくのは危険だ。というか、ダメだ。

対人援助は、クライエントの臨床像をいかに精度良く自分の中に描いていくかがポイントだ。

ここで、自分が描いている臨床像はあくまで仮説だということを忘れてはいけない。

クライエントのことを完全に理解することはできないと思いながら(仮説は仮説だと気づきながら)、それでもできる限り考えていく。

このあいだを行ったり来たりする過程がとても大事だ。

しかもできれば支援者数人で行ったり来たりしたいところだ。

そんな感じであそーとはやっていきたい。

とりあえず、臨床像を“描(えが)く”に変わる、何かいい言葉を見つけたいと思う。

“描く”とか書くのは恥ずかしい。

誰も自分のことを描かれたいとか思ってないような気もする。

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