NPO法人あそーとの腰が低めの代表のblog

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失敗に「言い訳するな」って責めるのは、すごい残念だし、たぶん炎上予備軍。-Boos&Apps
だから、当時しんざきにとっては、「ちゃんと説明しろ、言語化しろ」というその先生の言葉は、まるで「言い訳しろ。言い訳は大事だ。」と言われているようで、えらく新鮮だったし印象的だったのです。


先日、僕のblogを読んだスタッフや知人から「だいたい言い訳やん(笑)」と冗談交じりに言われた。悪意はゼロ。


僕にはまったく“言い訳”という視点がなかったので素直に驚いた。


ということを、上のblog記事を読んで思いだした。


僕は言語化という作業が結構好きで、生活する上でのいろいろな場面を言語化しているように思う。言語化し、如何に自分に有利なように出来事を解釈するかに精を出している。言語化というより、場面の多角的な解釈といったほうがいいかもしれない。


節約のために電気をこまめに消すことが僕はとても苦手なのだが、そこを指摘されたときの対応は、ユニクロの2990円のパーカーを土日セール1990円で買うだけで1000円お得。パーカーは2990円で買ったことは無いし、これからも買わない。つまり人生で1000円×X円を節約している。ひと部屋の電気をこまめに消すことで、いったい何円の節約になる?電気を消す手間を省いて、その分楽しくゲームとかしたほうがいい人生なのではないか。


※電気を消すことで得られる利益(節約できる電気料金)と、消さないことで得られる利益(気分の問題。面倒臭さの解消。苦手の正当化。)を比較して後者に勝利してもらうために、全然関係ないけどそれっぽいこと(ユニクロのパーカー)を長々と引いて勢いでごまかす作戦。


みたいなことを言ってしまう。文字にするとかなりウザい。文字にしなくてもウザい。とわかっていても、こういう態度が身に染みているのでつい出てしまう。すみません。


これの原因はたぶん幼いころから,、上手に言い訳することを父親に褒められていたからだと思う。言い訳しても全然怒られない。むしろ、今の言い訳はうまかったと褒められる。自分の非を認めたらダメだとも言われていたように思う。

※まず初めに“ごめん”は言いなさいと母親からは言われていた。


と、そんな環境で育ったので僕は他人の言い訳に対しても何も腹が立たない。


引用のblog記事にも書かれているが、組織(というか、仕事)においては言い訳は絶対に必要だと思う。


だいたいの仕事には目標がくっついてくるものなので、失敗はつきものだ。(失敗は目標と実績の差だから。目標があるものにはおのずと失敗がついてくる。)


僕は失敗を減らしていくのが仕事だと考えている。失敗を減らしていくためには、原因の言語化(=状況の分析)が最重要である。つまり、言い訳が最重要事項だ。


言い訳=悪、は普段の生活の場面に持ち込むのは一向に構わないのだが、仕事の場面には持ち込んではいけない。


あそーとの社訓に“積極的言い訳を多用する。”もしくは“屁理屈イェイ。”を加えようと思う。

先週の土曜日に、cocoaruでブクブク交換が開催された。

ブクブク交換とは参加者がテーマに沿った本を持ち寄り、その本を紹介する。他の人たちの本の紹介を聞いて、自分が気になった本と自分が持ってきた本を交換する、というイベントだ。

ルーム・トゥ・リード関西チームさん主催で、ココアルを使って開催されている。ココアル開催は先日で3回目。僕も楽しいので毎回参加させてもらっている。(いつもありがとうございます。)

今回のブクブク交換のテーマは「新生活・新学期」ということで、僕は夏目漱石の『坑夫』という小説を持っていった。ちょうど先日、読んだところだったので、タイムリーな感じのテーマだった。(『坑夫』を読むのは2回目。個人的には夏目漱石の中では一番好き。)

数年前からちょくちょく夏目漱石を読んでいる。雑なまとめ方かもしれないが、だいたいの漱石の作品の“頭いい男子がなんかウジウジ悩む”のがウザくて好きだ。村上春樹みたいに「やれやれ」とか言わずに、ウジウジしている。

『坑夫』の主人公もウジウジしている。最初の30ページくらいはとにかくウザくて最高。

作品紹介
恋愛事件のために家を出奔した主人公は、周旋屋に誘われるまま坑夫になる決心をし、赤毛布や小僧の飛び入りする奇妙な道中を続けた末銅山に辿り着く。飯場にひとり放り出された彼は異様な風体の坑夫たちに嚇かされたり嘲弄されたりしながらも、地獄の坑内深く降りて行く……漱石の許を訪れた未知の青年の告白をもとに、小説らしい構成を意識的に排して描いたルポルタージュ的異色作。

というような感じで、主人公は“堕落の稽古”(作中の表現)を始める。炭坑内では、稽古を必要としなくても“堕落”している人がたくさんいる。”堕落“せざるを得なかった人もいる。主人公の価値尺度において”堕落“がとても似合わない人格者も、状況としての”堕落“をしている。

最後は炭坑から出ることになるのだが、たぶん主人公は炭坑に入る前後で変わっている。

「新生活」が始まっている。

でも『坑夫』は、この変化を劇的にいちいち描かない。

これこれ、こんなことがあった。衝撃を受けた。そして、僕は変わった。

そんな言葉は出てこない。ただ、淡々と話は進んでいく。

僕自身も「なんか自分も変わったなー」とかときどき思うこともあるが、何か劇的なことがあったかと言うと、これです!ということは思いつかない。

でも5年前とは考え方とかも変わっているような気もする。

『坑夫』みたいに、たぶんこの5年くらいでいろいろと経験して変わったのだろうと思うけれども、どの出来事が自分にどう影響してとかはよくわからない。

生活や仕事の環境は変わったけれど、その環境の変化が自身が変わったタイミングかと言われるとそうでもない。

こんなことをウダウダと書いている僕も『坑夫』の主人公と同じ、“堕落に稽古”を要するうさん臭い人間なのだろうと思う。

でも、自分のうさん臭さは嫌いではない。

今年から、某高校でSSW(スクールソーシャルワーカー)を始めることになった。

昨日がその初日だった。

いろいろと担当の先生から話を聞く中で、同校に配置されているSC(スクールカウンセラー)さんの方針を教えて頂いた。

僕も、方針とかありますか?と聞かれたが、すぐに「ありませんねw」と答えていた。


今までも支援の方針などを聞かれることはあり、そのほとんどの場面で「ありません」と答えていたように思う。

自分では、自分には支援の方針というものは無いなー、とぼんやりと思っていた。

けれども、方針を持たないことが方針、と昨日はなぜか思った。


対人援助において、確固たる方針(方針というか信念?)や自分のこだわりを持つことはダメだと僕は思っている。


バイステックの7原則という、対人援助場面における7つの基本姿勢みたいなものがあり、その中に「非審判的態度の原則」というものがある。


支援者はクライエントの態度や思考をジャッジしないこと、と僕は解釈している。

※ここでいうジャッジは良い悪いを決めること。個人的には好き嫌いは持ち込んでもいいと思っている。というよりも、好き嫌いは抑えることはできない。でも、自分が感じている好き嫌いを自覚することは必要だ。


この原則が僕は一番好きだ。


僕みたいな奴にはジャッジする資格はないです、、、みたいにいつも思っていられるような支援者になりたいと思っている。腰は低くありたい。



確固たってしまった時点で、そこにはジャッジが含まれているように僕には思えてしまう。

だから、確固たる方針は持ってはいけない。“信念”というやつだろうか。少し違うかもしれない。


でも、確固たらない方針は必要だ。

様々な関係機関、そして本人やその家族と共に進めていく対人援助は、進む方向性が決まっていないとどうにもならない。


確固たらない方針は相手ありき、確固たる方針は自分だけ。いい感じにまとめられたと思う。


某高校でも方針を持って取り組んでいけるように、まずは相手方のことを知るところから始めようと思う。

確固たる方針(もしくは信念)は持たないことが、僕の方針(もしくは信念)のようだ(^^)/


 


 


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